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社長対談:水越康介氏<5>

(株)トークアイ代表取締役CEO 佐野良太 × 首都大学東京准教授 水越康介氏

量的リサーチと質的リサーチは対立構造にない

佐野:次に、これも新しい提言かなと思っているのが、「量的リサーチと質的リサーチというのは対立構造にない」です(図表8-1)。両方やれば、いいリサーチになるのではないか、「理想的なリサーチは量的にして質的」と書かれています。この発想というのはそもそもどういうところから来ているのでしょうか?

水越:研究でも量的研究と質的研究とに分かれていて、量的な研究は深さがなくて、質的な研究は量がない、妥当性がない、一般性がないというふうに言うのですが、それに対する違和感があって、であれば両方やればいいのではないかと、もともと思っていました。同時に、特に質的な研究をされる方の一部の方というのは、そもそもそういう問題じゃないようなことをテーマにしているのかなと思っていた経緯があって、そのあたりをもうちょっと取り出せないかなぁと思ったのが発端です。

佐野:海外でもクオリティティブとクオンティティティブというのは対立的で、人種的にもちょっと違うようなイメージがあります。一番いいのは確かにリッチな深いデータをいっぱい集めればいいということで、ネットの発達によって深いデータを低コストでいっぱい集められるようになった。もっぱらこのコストの問題に注目するとそういうことだと思います。一方で、これまである程度コード化できて集計できていたものが、今度はリッチなデータをいかにしてそのまま理解するかという話になってきます。そうなると今度は人間の知性の限界の問題が出てくるような気がします。

水越:それはあると思います。今回の量、質の区分ではなくて社会構築的な話をしているのは、その5個じゃ足りないから6個調べようとか7個調べようと増えていったときに能力の限界ももちろんあるのですが、現代的にはまさにそのコンピューターのおかげでかなり暴力的にというのか、強引に計算できるという状況が生まれているということです。昔であれば人間は100個までしか数えられないから、能力の限界があると言っていたのを、今ならパソコンを使えば1兆でも100兆でも集められるし、分析できる。ビッグデータとかスーパーコンピュータを使えば桁数はほとんど無限に増やせるわけです。そういうときに、根本的なもっと別の問題というのをうまく提示したいと思っていました。それが第3軸の話で、そもそも数え上げている対象のモノが、確固として存在しているかどうかわからない。1兆個、100兆個でもいいのだけども、その1兆個の当の1個が、1個として数えていいものかどうかがわからないということを考えると、もう少し違う視点が生まれるかなと思います。
人間の知的作業がなければ何も見つからない

佐野:そういう意味で言うと社会構築主義というのは、データをいっぱい集めて帰納的に分析すればある法則が導き出されるという態度とは対立するというか、反対のアプローチの気がします。私はビックデータの話を聞いたときに、宇宙物理学のイメージが何となく思い浮かびました。宇宙からやってくる電波を電波望遠鏡で捉えたデータを宇宙物理学者は一生懸命計算して、宇宙のあり方を探求しているわけです。膨大なデータというか、宇宙から降り注いでくる電波を分析して、そこから何か、今のビッグデータの考え方で言えば、何か統計的な処理をすれば宇宙の統一原理みたいなものがわかるはずだということになると思うのです。しかし、どうも現実はそうではなくて、やはり人間の知性というか、データを見分けて何か仮定を導き出すような知的作業がなければ何も見つからないような気がしますが、状況は似ていますか?

水越:似ていると思います。こちらでどう見るのかとか、創造的な、認識的な側面がなければ難しいだろうと思うのです。私がさっき話したのは説明の仕方、その理由のつけ方を結構考えたところがあって、一つの理由のつけ方は無限に降り注いでくるので、人間は10個しか数えられないのだからどの10個を取り出すかという仮説が大事なのだと、こういう話になるのが一つの様式です。この説明の仕方は現代的には難しいところがあって、いや、機械を使えば、ビッグデータを使えば、統計を使えば飛躍的に数を増やせますよということで解決できるかもしれない。それに対する別の説明の様式として、その当のその降り注いできた1個の情報、この1個が1個かどうかわからない。数え上げられるモノかどうかわからない。そんな感じですね。

佐野:社会構築主義では、社会というのはすべて当事者というか、社会を構成している人間の共通の認識で成り立っていて、そこに別に客観性というようなモノを仮定する必要はないと考えます。栗木先生の言われる「市場は社会における企業活動や消費者行動に見合うようなさまざまな行為の規則や市場の秩序を普遍的・法則的なものではなくて構成物として考える」も、そこに客観性や普遍性はないということだと思いました。

データは事例としての意味を持つ

水越:そうですね。実際にモノが存在しているかどうかということ自体を議論する必要はないということです。一昔前だとこの手の議論はかなり批判にさらされていたし、同時にこの手の議論の人たちが言い過ぎていたところがあるなと思います。外側にモノは存在しないというような言い方をしたときに、それは言い過ぎじゃないかとか、じゃ、君はどうやって生きているのだと、こういう話になりかねないところがありました。

佐野:それはあまりに議論的に過ぎると。

水越:はい、それは変な話だなと僕も思っていました。そうではなくて、誰でも何かがあると思うし、我々は日々確信しているわけで、むしろ、問う対象を確信しているとか、了解しているということについて、それがいかにして了解できているのかとか、そういうのが社会的に成立している理由を考える。それこそが研究であり、その社会構築主義の基本的なスタンス、そういうふうに考えたほうがいいのではないかという、そのぐらいです。

佐野:ここでの重要な提言は「データは事例としての意味を持つのだ」ということですね。

水越:そうですね。

佐野:それは必ずしも普遍的なものをあらわしているだけのモノではなくて、一つの手がかりに過ぎないということだと思います。我々がそこから何を導き出していくのかということが重要になると思いますね。

水越:そうですね、1個の事例だと考えたほうがいいというのは、1個の見方だと思ったほうがいいというぐらいの感じです。要するに、今までの量的な研究とか、一般性があるとかないとかを証明しようとしていた研究というのは、一番根本の仮定として、こういうモノがある、数え上げられるモノが存在するという仮定を置く必要がありました。出発点が仮定なので、だから1個の事例、見方だということです。こういうモノがあるとすると、それを一般的な現象として世界をとらえられるという、そういう限定的な事例として考えられる。そういうものを手がかりにして、こちら側が驚いたり、それはどういうこと?と思えるかどうか、ここから議論をしていったらいい。

佐野:いわゆるそれが客観的な普遍的な存在としてあるという、そのまま受け入れるわけではなくて、それに対してそういう事例だという、あるということを、驚きを梃子にしてみずからを相対化していくというようなことを書かれていますけど、これがフィールドワーカーショックなのかなという気がします。

水越:そうですね。

確信には他者の存在を必要とする

佐野:それを確かめるというときに、どのようにそれを確かめるのかがちょっとわからないですね。

水越:そこはまさに「本質直観」の方法になるのですが、もともと書かれているのは、その自分の中で確信している理由というのを問い直す作業です。何でそう思っているのかとか、これは赤いと思ったからとか、この間そんなことを言われたからとか、そういうのを問い直して、一体自分の確信がどういう形で形成されるのかというのをマップ化していくというのか、そういうのが一つの作業だと思います。もっと言えば、この作業というのは本の中にも書いているのですが、多分一人では支えられないというのか、結局誰かに依存することになるのです。こうなったらその話をほかの人と話したりとか議論するという可能性が生まれてきて、そこで議論する中でそうだなぁと思ったりとか、いや、やっぱり違うのかなぁと思ったりするという、そんな了解が生まれるのかなと思います。

佐野:そういうことだとすると、何か自分の中に芽生えたモノがモノであるという前提に立たずに、それを問い直すために他者の存在を必要とすると。そこでその議論というか、言葉のキャッチボールというか、意味の投げかけをすることによって、それがさらに高次の段階に昇華していく可能性を残す。それがまさに対話だということですね。

水越:まさにそんな感じです。現実はなかなかそうはならないよ、という話なのだろうともよく思うのですが(笑)。

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水越 康介(みずこし こうすけ)

1978年生まれ。神戸大学大学院経営学研究科博士後期課程修了。現在、首都大学東京
大学院ビジネススクール准教授。博士(商学)。専攻は市場戦略論(マーケティング論)、
商業論、消費者行動論。
Webサイト:水越康介私的市場戦略研究室 https://www.mizkos.jp

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